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見る・見えるってなんだろう。トーマス・ルフ展のかんそう

ちょっと前のことなんですがトーマス・ルフ展@近美、行ってきました。

www.momat.go.jp

 

簡潔に言うと、トーマス・ルフ展は、目が見える人は全員見たほうがいい。

 

視覚体験とは何か。今の私のつたない理解ではそれはつまり、網膜からの情報を、意味として理解することであり、そして、場合によってはそのためのメディアの形式(表現手段)がある。旅先でただ風景見てたりする場合は別にメディアは関係ないけどさ。
で、視覚体験を提供するメディアの形式ってのは時代が進むにつれてどれもくたびれ破れていく。そして新たな手段に取り替えられていく。例えば絵画→写真とかさ。写真にしてもモノクロ→カラー→デジタルとかさ。映像にしても、フィルム→4K→8Kとかさ。

 

この展覧会では、おそらくルフ自身の人生を通じて得たすべての視覚体験を簡潔に写真にして表現してるんだけど、なんというか、それは物事の表層(手紙を入れる封筒みたいな)のような感じ。写真っていう表現手段そのものを表現しているのが、ルフの写真なんだろうなって思いました。

 

うまく伝わるかわからないけど、展示を見ながらすごく思い浮かべたのは歯医者でバイトしてた時の施術用手袋。本質って表層の内部にあるけどここでは、手袋のようなものを展示していて、でも本質に触れそう。そして手袋は古びたら捨てる。そこのギリギリな切ない手触りがすごく伝わる。すごい。

 

理由あって、最近VR映像について考えることが多いのだが、映画っていうか視覚芸術ってフレーミングが最も大事だと私は思うんだけど、VRってそれを放棄していて。つまり作家がどうやってただ無秩序に眼前に広がっている視覚情報を切り取る(フレーミングする)かっていうことが作家性そのものだと思ってたんで、それを放棄している(見る側に預けてしまっている)VRという表現手段には果たして作家性って宿るのかな、って思うんだけど、ルフを見て、ああ、そういうことか、と。

VRも、VRにとって最適な表現を見つけるだろう。そしてその最適な表現がVRという手段を延命させてくれるんだろう。それがなければ廃れるだろう。写真もそうなんだなって。

 

ルフの写真展を見に行く前、いま写真にできることってなんだ? って思ってたけど、見てわかったのは、写真にしかできないことをやってるんだよな。写真にしかできないことを発見することがつまり芸術なんだよなって。
それで最初の話に戻るけど、メディアの形式の進化があっても旧メディア形式が廃れないのは、それでしかできない表現があるからなんだよなって。
技術の進化はしても、技術に最適な表現があってそれがいいなら残る。まとまんねーなー。とにかくルフすごい。

というか私は、展覧会を見始めてから、初めはベッヒャーみたいな展示が続いたので、安心して、ああ、はいはい、って感じで見れてたんだけど、徐々にルフの展示にざわざわしてしまい、「なんだこれは・・・なんだこれすげえ、表現手段についてここまで考察できるってこの人の頭どうなってんの」ってなって動揺してしまった。

あと明らかに、ルフはプリントのサイズ選びに成功してて。サイズって大事なんだなって。

「見る、見える」ってなんだみたいなことを凄く考えることができる展示なので、トーマス・ルフ見たほうが良いですよ。

ってことで。なんか説明が拙くて、読んでいる皆さんは良くわからんかもしれないけど(それはおそらくあなたのせいではない)、そういうことを考えました。